以前に、
「魚が減る原因はたくさんある、原因となる人もたくさんいる」
「原因となる者同士の責任の押し付け合っていても対策は進まない」
みたいな話を書きました。
また
「乱獲を隠す人は、利益の既得権を変えたくない水産庁の天下り関係者」とか、
「乱獲をでっち上げる人は、漁業を邪魔したい欧米の環境団体の手先」とか、
お互いにレッテルを貼り合って、攻撃し合ってしまうのです。
こういう状況の何が大変かって、誰もが「善意」「正義感」を持っていること。
正義感であるがゆえ熱く、攻撃的になります。
異なる正義同士で攻撃し合うのではなく、上手く利用し合うことが大切だと僕は訴えます。
主な内容
1.「嘘つき」認定の応酬と分断
2.冷静さを奪う“絆の罠”
3.陰謀論は乗りこなせ
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1.「嘘つき」認定の応酬と分断
「日本の天下り官僚は嘘をついて
実際のところ、国内にはしっかり獲り過ぎを防いでいる漁業だって少なからずあるし、天下り先で立派にリーダーシップを発揮している人もいるんですが…
このことを指摘されると、アンチ天下り的な人は「お前も国の御用か、嘘つきか」となってしまったりする。
もちろん、日本に獲り過ぎ状態の魚種が多くいることは、科学的には否定できません。欧米政府も環境団体も、全てが反捕鯨団体のような暴論を振りかざしている訳ではありません。でも、そのことを指摘されると、アンチ環境団体的な人は「お前も
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2.冷静さを奪う“絆の罠”
ただ、アンチ水産庁的な人も、アンチ環境団体的な人も、多くは善意で動いていています。
仲間を叩かれまいっていう意識、人の絆というのは、確かにかけがえのないものです。
絆や熱い想いは、叱責されるべきではないでしょう。
ただ、善意であるが故、絆があるから故、人は熱くなりすぎることがあります。
「コイツらが加害者であり敵なのだ」という単純な、そして感情のこもった話というのは、分かりやすく人の心を煽る。煽られた人の多くは自説を省みる冷静さを失ってしまう。
意見の合う者同士だけで信じ合い、合わない者同士は「天下り」なり「環境団体」なりレッテルを貼り合って敵対します。そしてマウントを取り合う。
仲間内の主張に誤りがあると指摘されても「嘘だ、陰謀だ」「信じられない」などと受け付けなくなる。仲間内の主張に合う情報だけを発信する人を「まともな人」と考え、「仲間内の考えこそ真実」と捉える。
なので、知識が偏ります。偏った知識でしか、魚の減った理由を考えられません。
結果、魚が環境条件のせいで減った時すら「乱獲だ」と決めつけたり、獲り過ぎで資源が減っているはずなのに「漁獲が減ったのは漁師が減ったから」と見たりします。
レッテルだけで異論を全否定しては、肝心の現実を見失ってしまう。
絆というものが、時に人の視野を偏らせるという“罠”も頭に入れ、各自が注意すべきです。
仲間内の空気やそれに沿った知識だけが正しい、そんな保証はどこにもないのですから…
むしろ、空気を読まず「本当に仲間内の知識は正しいのか」と話し合うことも、時には大切でしょう。
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3.陰謀論は乗りこなせ
とはいえ陰謀論って、悪いだけのものでもありません。
「天下った人が漁業界とベッタリだと、魚の獲り過ぎを見過ごしかねない」という問題意識は
「本当に魚が獲り過ぎなのか」「天下りでいい加減な仕事をしている人がいないか」と調べる努力につながります。
「環境団体が不当に厳しく漁業規制すると、漁師さんが失職しかねない」という問題意識は
「漁業規制が過剰になっていないか」「もし漁獲を減らすにしろ、漁師さんの収入を守るにはどうしようか」と考えるキッカケを生みます。
最初から「陰謀論はバカバカしい」と相手にしない人は、こういう思考に行きつけません。
謀論論(権力を疑うこと)自体は、否定したり笑ったりすべきではないでしょう。
避けるべきは陰謀論自体じゃなく、不公平な話の聞き方のはず。
「好きな人の陰謀論は聞くけど、嫌いなヤツの陰謀論は聞かない」という不公平な態度を取らず、
「こっちの人はああいう陰謀を心配しているのか、あっちの人の心配はこんな感じか」と、
とりあえず聞いてみること。自分と違う陰謀論を知っている人を探して、その知恵をもらい利用することができれば、問題はありません。
特定の陰謀論だけを信じてしまうなら視野が狭まりますが、
色々な種類の陰謀論を聞きかじって、それぞれから情報を掴む。
いわば、陰謀論を「乗りこなす」。すると、得られる知識の幅が広がるはずです。
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幸いなことに、ここ数年、水産業界では、「乱獲が問題だ」という人と「乱獲を責めすぎるな」という人が、お互いの意見や知識を交換する場面が増えています。
こういう流れの中で“絆の罠”から脱する人が増えていけば、魚を増やすための議論も前に進みやすくなっていくでしょう。
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